公開: 2019年9月30日
更新: 2019年10月xx日
1941年12月第2次世界大戦に日本が参戦し、日本海軍がハワイのオアフ島にある真珠湾の基地を攻撃したとき、日本海軍全体の指揮を執っていたのが、山本五十六でした。山本は、キリスト教に関する知識があり、アメリカ合衆国の歴史、地理、経済について深く学んでいました。1919年から1921まで、アメリカに滞在し、アメリカ合衆国の産業構造について調査しました。1925年から1928年まで、駐米日本大使館の駐在武官として再度、米国に赴任しました。
1929年のロンドン軍縮会議では、日本の代表団の1人として会議に参加し、日本海軍の規模を米国海軍のそれの約7割に設定するよう主張したが、結果的に山本の案は受け入れられなかった。その後、海軍内において要職を歴任し、1936年11月、山本は海軍次官に就任しました。山本は、航空部隊が、将来の戦争では重要になると考えていました。また、日独伊三国の軍事協定には反対でした。その反対の理由は、ドイツが地理的に日本から遠く、戦争では軍事同盟が意味をなさないとと考えたためのようです。
1939年、山本は、連合艦隊司令長官に就任しました。山本は、「アメリカ合衆国との戦争は無謀」としながらも、米国を仮想敵国として戦争を準備すべきであると考えていました。特に、航空戦力の充実が重要と考え、ゼロ戦の開発と生産に力を入れました。さらに、ハワイの海軍基地を奇襲攻撃する作戦を常に考えていました。1940年、近衛文麿首相の「米国との戦争で勝つ見込みはあるか」と言う質問に対して、[1年間は互角に戦えますが、2年3年となると分かりません」と答えたとされています。しかし、この返答が、近衛首相に「海軍は、1年間は戦える」と誤解させてしまったようです。